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2019年11月

2019年11月24日 (日)

古い記事で知る*その2*映画『野バラ』封切りのころ

 

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「レコード芸術」の古い記事に、ウィーン少年合唱団出身という立場で座談会に招かれていたかたの名前がありました。

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ヨセフ・モルナールさん。

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1958年8月に日本で公開された映画『野バラ』をテーマにした座談会の記事で、「ウィーン少年合唱団が生活の中で歌う」というタイトルでした。

モルナールさんは日本ハープ界の父と言われているオーストリア人演奏家です。

残念ながら2018年11月21日に、89歳で亡くなられていました。ちょうど一年まえですね。

 

https://www.asahi.com/articles/ASLCQ2PLDLCQUCVL001.html

https://harpcolumn.com/blog/remembering-josef-molnar-1929-2018/

 

リンク先から読み取ってください。このかたはウィーン少年合唱団出身ですが、年齢から察せられるとおりシュニット神父のときに入団し、その後グロスマン教授のもとで歌っていました。

ウィーンフィル時代にN響の招きで来日し、一度帰られたあと1955年に再来日し、その後は日本で演奏家として、そして多くのハープ奏者がモルナール氏の指導のもと巣立って行ったとのこと。

にわか仕込みでこれ以上は書けませんが、古い記事でのお話には新鮮な驚きがありました。

引用部分は青色の文字にして、記事の感想をお話します。

 

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出席者は、磯部 俶(いそべ とし)さん(合唱指揮者・作曲家)、村田武雄さん(日本バッハ・アカデミー協会会長、日本ヨハン・シュトラウス協会副会長など)、野口久光さん(グラフィック・デザイナー、野ばらの映画ポスター作者)、ヨセフ・モルナール(ハープ奏者、バリトン、日本ハープ協会会長)

上記紹介はネットをたたきました。知らないにも程があるのですが、実際私は存じませんのだ。野口久光さんのポスターはこんなにたくさんありました。勿論、野ばらのポスターも!

http://www.ne.jp/asahi/machikado/enjoy/events/event_past_2017_c.html

 

映画やデザインは好きな分野ですが、名前とポスターの絵柄が今初めて一致しました。うちの母は映画好きで昭和20年代の映画パンフがたくさん今も残っていますが、野ばら封切りの昭和30年代初期は子育てが忙しく映画どころじゃなかった。昭和29年のローマの休日が、一人で見た最後の映画だと言ってました。そんな母がもし野ばらを見ていたら、私を来日コンサートに連れて行ってくれたかもしれなかった・・・と、ありえない「たられば」を考えたりします。

 

私たちは今DVDや、あるいはYouTubeで好きな時に映画鑑賞できますが、封切り上映というのは、いつもわくわくしますね。劇場で大きな画面で見るのは格別です。

この座談会で開口一番村田さんがおっしゃっています。(レコード芸術1958年3月号より)

四年前のウィーン少年合唱団の印象は今も鮮やかに残っていますが、そのウィーン少年合唱団を再び聴けるのが野ばらです。この映画の原題はわが生涯の最良の日ですが、ウィーン少年合唱団がすべて役者になってしかも日本に来た連中が、たくさん歌っているので実に楽しい。・・・後略」

ええ!そうなんだ。公開されたときから、トラック隊の出演ということが知られていたんですね。音楽、ことに合唱指揮をされる方ですから55年の初来日も聴きに行って、彼らの出演もご存知だったのでしょう。

 

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レコード芸術1958年8月号より
団員時代のモルナールさん(左から5人目)

 

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モルナールさんは野ばらをご覧になって、大変懐かしかったそうです。

団員になったのは1938年9歳のときで、翌39年7月に初めてヒンタービッヒルに行きました。映画に登場するチロルの山荘です。また合唱団の試験を受けた時の様子も話されています。

時代背景から理解しなければなりませんが、ヒットラーがウィーンに侵攻した年です。モルナールさんはユーゲントに入りましたが柔らかい声だったので軍隊式には歌えなかったそうです。ウィーンの中心のお城のチャペルで毎日曜日歌っていましたが、チャペルの隣にウィーン少年合唱団の練習場があって、5階が試験場。そこで合唱団の試験を受けたそうです。

・・・試験ではいまとおなじ旋律を歌いました。映画と同じでした。全くあの通りやりましたので、あれを観ていてたいへん泣けましたよ。(笑)私はたいへん高いところまで声がでましたので、みんな褒めました。又オーストリア国歌も歌いました。

 

モルナールさんはシュニット神父とグロスマン教授から教えを受けたかたで、この座談会でもシュニット神父のことを訊かれていました。

トラック先生が来日したときにも、シュニット神父のことをよく質問されていたようです。帝政が滅んで皇帝の庇護が断たれたとき、1918年にシュニット神父が集めた団員は12人でした。その後6年間は国立歌劇場やフィルハーモニーなどの力を借り、1924年に正式にWiener Sängerknabenとして再建され、シュニット神父がそれを大きく成長させコアは3つに増えました。

現在の4つのコアは1951年からだと、トラック先生が言っています。

ブロ友さんと古代前期のカペルマシスターについて話すことがありますが、ラコビッチ、ブレン、キューバッハといった指揮者は過渡期のカペルマイスターということになります。もとは3つだったのですから、現在の4つのコアのルーツをたどるというのは、この時点で難しくなります。

映画の話題からずれました。軌道修正・・・。

 

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村田:映画に出てくるチロルのホテルもシュニットが造ったんでしょう。

モルナール:そうです。アルプスの1400メートルの高いところにあります。ぜんぜん静かなところです。それがヒンタービッヘル。最初は家はなにもなく、農場だけでした。あとでホテルが出来ました。たいへんいいところですよ。

 

モルナールさんが正式に入団したのは6月で、一週間後にチロルに行ったそうです。

はいったばかりでたいへん心配でした。たくさん泣きました。お父さん、お母さんも泣きました。別れて山の合宿に行くのですから。皆リュックをしょって行きました。汽車出ました。たいへん泣きました。(笑)一時間あともう大丈夫でした。上の人四年生がグループをつくって皆で歌いましたのでもう忘れてしまいました。

当時の団員は60人だったそうです。お母様から手紙が届いたそうで、野ばらを見てモルナールさんの子どもの頃を思い出し喜んでいらしたそうです。

歌われていた曲は昔からのものが多いそうですが、「歌声ひびけば」と「陽の輝く日」はノイブラントがこの映画のために新しく作曲しました。ここで磯部さんが、歌いやすいような歌詞がつけばきっと日本でも歌えるとおっしゃっています。それはその通りになりました。

行進曲のようなこの曲はNHKのみんなの歌で放送され、私も学校でも歌ったものです。

 


歌声ひびけば  Wenn ein Lied Erklingt

 


陽の輝く日 Ein Tag voll Sonnenschein

 

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映画ではでPueri Conciniteが歌われるシーンがあります。そうです。タイマー先生団員時代のソロ。

野口:あの映画でチャペルで歌うところいいですね。

モルナール:すばらしいでした。あの歌は、ヤコブス・ガルス・・・・・。

村田:ドイツの十六世紀の教会音楽家ですね。いつもああいうふうにチャペルのオルガンの前でうたうのですか。

モルナールさんはあの教会は毎週歌うところではなく映画のために特別に作ったのでしょうと答えています。

あの大きな教会は、リリエンフェルト教会ですか? 正直私はよく知らないのです。WSKの80年代の本にあのパイプオルガンの写真があり、リリエンフェルト教会と書いてありました。でもドナウ川沿いではなく外観も少し違うように感じられます。撮影のための別々の教会なのでしょうか。メイキングみたいなサイトがどこかにありませんかね?


Pueri Concinite

 

 

ブリューダーライン・ファイン(映画の中では「青春」)についてはこう話されています。

モルナール:ライモンドのこの歌はたいへん人気があります。そのためにライモンドは、ウィーンにお金持ちの家作りました。ライモンドの芝居はいつもお金で青春は買えないという人間らしいものをもっています。これは五時間かかる芝居です。

村田:五時間とはたいへんですね。

モルナール:ほんとうに人間的な詩をもった人です。

村田さんがバスティアンとバスティエンヌを55年に日本でやったことに触れ、映画を見ると女役になるのが楽しそうですねと、モルナールさんにふりました。するとモルナールさんは、「かわいいですね。みんな一人、パウダーをパタパタ顔中にぬるでしょう。目茶苦茶なことやりました。私あのとおりです。」と、ご自分の団員時代が思い出されたようですね。


Brüderlein fein 青春(かわいい兄弟)

 


バスティアンとバスティエンヌより

 


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この座談会記事にはヨハン大公の話題はなかったのですが、私には貴重なソロ映像。レコード録音とはちがいますが、ヨーデルはクレン君のたぐいまれな音域広いアルトのような気がします。もう一人ソプラノが聞こえますね。それも素晴らしい。
やぼったいけど可愛いレーダーホーゼにハイソックスだったり、当時の私服コーデと山の風景がマッチした素敵なシーンです。


ヨハン大公のヨーデル Erzherzog-Johann-Jodler

 

「わたしのママはウィーン生まれ」は当時のウィーンの人は誰でも知っている曲だそうですが、映画の中では短いシーンでもったいないくらいでした。モルナールさんはこれを聴いて泣いてしまったとか・・・。「お母さんも泣いたでしょう。遠いですものね」とおっしゃっていました。

WSKの動画はなかったので、デジカメで急ぎ直撮り。バスティアンとバスティエンヌの歌唱シーンもそうですが、このシーンということだと伝えたいだけだったので、超適当ですみません。このソロを歌っているのがトーニじゃないんです。横向きだけど団員です。本人の声かどうかまでは不明ですが、きれいな声ですね。セリフも子供らしい声で楽しい場面です。

 


私のママはウィーン生まれ Mei Muatterl war a Wienerin

 

映画に出演している俳優についてもたくさんお話されていますが、トーニの養父になったブリュメルおじさんの言葉はウィーンなまりだったそうで、その発音がとても懐かしかったそうです。厳しい教師役のケプラー先生も人気のある役者さん。マリア役の女優さんの描きかたも、アメリカのやり方をはちょっとちがう。それがよかったと話されています。

えっと、『野バラ』とは関係ないのですが、私が大大大好きな映画「会議は踊る」。12歳の時にテレビで見て以来ずっと私の一番の映画です。この映画にウィーン少年合唱団の団長を演じたパウル・ヘルビガーが出演し歌っていました。

どこかで聴いた声・・・とは思っていましたが気づくまで時間がかかりました。会議は踊るは1931年、野ばらは1957年。

こんな歌を歌っていたんですよ。ホイリゲで歌う人の役。
レコードの解説には、巻き舌がウィーンぽいみたいなこと書いてあった気がします。ははは、実はレコードまで持ってるの。

2分50秒ぐらいで歌っているカップルが主人公のロシア皇帝と手袋屋の娘クリステル。ウィーン会議のおとぎ話でした。


Das muss ein Stuck von Himmel sein Wien und der Wein


また脇道にそれました。

1958年公開当時のことなんて露知らずでしたが、その時代にウィーン少年合唱団の元団員が日本で活躍していたこと、そのかたが野ばらを日本でご覧になったこと、懐かしくて泣いた・・・ということ。どれも感情移入して読みました。

こんな素敵な座談会、いまどきの雑誌にありますかね。最近雑誌を買わないのでピンときません。それは自分も好奇心がなくなってきた証拠かもしれませんね。

 でも歴史は面白いです。古代発掘はすぐに頓挫しますが、雑誌の対談記事なんかにもちょっとしたヒントが隠されていますから、また時間を作って図書館に探検に行きましょう。

 

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トーニが川に落ちて怪我をして意識を失い、回復するまでのシーンで歌われたアベ・アリアは、国立歌劇場の歌手マリア・チェルニーが歌っています。

 

 

山を背景に歌うミサのシーンは印象的でした。モルナールさん曰く「山は人の力になりますよ。楢山節ね。山で生きることね。ぜんぜん苦しくないですね。

どうして楢山節をご存じなのかと思ったら、楢山節考はちょうどこの頃に書かれた小説で、賞を取り翻訳版も58年頃に出版されていました。日本文化に精通されていますね。

このシーンではトラック先生が指揮をされていました。女性歌手が身に着けている衣装は、青と赤・・・マリア様カラー。山間に住む人々の民族衣装もすごくきれいです。

こうして見ていくと、この作品はやはり名画ですね。音楽の選択も良いし、出演者も合唱団メインで合唱団が正しく描かれている。わが生涯の最良の日というタイトルは、大きな意味ですべてのウィーン少年合唱団団員たちに通じることではないでしょうか?

人生の中のわずか5年間ほどの団員生活ですが、瑞々しい感性の少年時代は二度とありません。大人になって大成功を収めた人であっても、青春はお金で買えない。劇中のオペレッタのようにね。

卒業してもずっと、ウィーン少年合唱団の団員であったことは、彼らの最良の思い出であってほしいと思います。

 

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2019年11月20日 (水)

古い記事で知るトラック隊初来日のこと

 

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ウィーン少年合唱団の初来日は1955年の12月でした。それから翌年2月初旬まで各地でコンサートを行いました。

図書館で当時の雑誌の記事を読んだので、今日はトラック隊のお話です。

今回は少女雑誌ではありません。子どものころ少女雑誌に書いてあることを全部信じていました。でも残念ながら事実ではないこともありましたね。64年組の友情物語はいまだに本当かどうか知りませんが、今となっては楽しい思い出です。

 

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王子像は心に残し、今回読んだのは音楽関係者の記事や周辺からみた普段の団員たちの様子など、ノンフィクションばかりです。

デジタル化されている雑誌の中で64年以前というのは、実際アイドル的な記事はないようです。

興味深かったのはやはり音楽専門誌の対談記事とか密着取材。密着といっても楽屋を訪問したり、数回のコンサートに同行するくらいで団員名などは書かれていませんが、昭和の評論家先生の対談よりは女性目線の取材のほうが、いくらかこちら(ファン)寄りの感じがあります。

 

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50年代後半のドイツ公演プログラムに、第1回日本ツアーの写真がきれいにレイアウトされていました。その中に東京でのテレビ出演の写真がありました。ネットでも見たことがありますが、トラック先生と並んですわっている団員たちが誰なのかわからずにいました。

音楽の友にその対談記事が掲載されているのを見つけたのです。写真も少し角度を変えて撮影されたものが使われていました。

 

 

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これはドイツ公演のプログラムからです。斜めなのは冊子のレイアウトの関係で・・・。



雑誌の写真には、「右からフリーデマン、ヘルベルト、トラック、渡辺 護の諸氏」・・・とキャプションがあります。

・・・でも、私が思うところヘルベルト君は、右端の小柄な子ではないかな。

そしてフリーデマン君の名前は、本文ではフリーデマン・ヴァナック Friedemann Wanack と書かれていました。これはたぶんフリーデマン・ヴォネシュ君の間違いじゃないでしょうか? プログラムもレコードもWoneschとなっていますからね。

この真ん中の団員クンのことで、はたとひらめきました。💢

「やっぱり彼がヴォネシュ君だ!」

 

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前にも使ったこの写真で前列左端がヘルベルト・シュテパネク君ですが、合唱団でソプラノ・ソリストの定位置(前列ピアノのすぐ横)にいる背の高い少年を見て下さい!

フリーデマン・ヴォネシュ君ではあるまいか。

NHKの出演写真では真ん中にすわっています。今ひらめいたこの考えを絶対とは言いませんが、ヴォネシュ君と思しきこの少年の姿を何度か古い写真で見かけました。個性的な顔立ちで覚えやすいの。

 

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対談の記事では、13歳なので「日本公演がたぶん最後のツアーになるね」とトラック先生から言われていました。

ヴォネシュ君は1956年録音のモラルト指揮「戴冠式ミサ」で、ソプラノソロをやっています。アルトはクレン君です。

昔の記事でそのLPレコードを取り上げたことがありました。あのときに比べたら、本当にたくさんのことが見えてきました。あの頃は来日団員リストにヴォネシュ、クレンの名前があったというだけで喜んでいました。ただそれだけのことしか知らなかったんですもの。

 

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1955年ー56年 来日プログラムより

 

自分にとってブロ友さんたちの存在が大きいのです。レコードはそれなりに持っていましたけれど、初来日のことを知りたくなったのも、こうしてソリストのことを知るようになったのも、皆さんからのコメントがなければあり得なかった。

YouTubeにはモラルトの「戴冠式ミサ」がありませんでした。ついこの間まであったような気がするのですが、勘違いだったようですね。

・・・と思い、面倒でしたがデジタルミュージックを買ってアップしてみました。

ヴォネシュ君とクレン君の戴冠式ミサです。写真は56年モーツァルト生誕記念録音のモラルト盤のレコードジャケットで、音はデジタルです。オケの音色はレコードのほうが深みがあっていいんですけれど、古いのでちょい傷もあったので買い替えとしました。

レコードにトラック先生の名はどこにもないですが、合唱としてはトラック隊が参加していると思います。初代モーツァルトコアですから、そうであってほしいですよね。30分近くありますから、秋の夜長に、ゆっくり聴いてください。

 

 

 

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場所はミノリーテン教会

 

たおやかなソプラノですね。アルトもソプラノも安定した声で声量もあり、大人の歌手に引けを取らないのがわかります。日本ではレクイエムが1956年のモーツァルト生誕記念でN響との共演でも演奏されたようです。それを聞いた大勢のかたがいるのです。一大イベントだったことが想像されます。

評論家との対談でトラック先生が旅行中の練習について話されていますが、モツレクは初めてやったわけではないけれど、東京での演奏のために新しい気分で根本から練習しなおしていたそうです。今の合唱団にも毎年思うことですが、来日中に彼らは必ず成長します。それはこのころから同じだったんでしょうね。演奏旅行は子どもたちの成長との間に相乗効果を生むように感じますね。

この対談の中で、フロシャウアー先生がアメリカツアーに行っていると、トラック先生が話されていました。メモメモ・・・1955年12月アメリカツアーはフロシャウアー隊ですぞ。

 

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インタビューでの内容を少しご紹介しますね。(対談は55年12月21日,NHKにて。)

到着したのは12月20日夜11時過ぎで、前のツアー先ドイツを18日に発って日本に向かったそうです。飛行機は快適だったとのこと。

ヴォネシュ君はイギリス、オランダ、スウェーデンなどヨーロッパの国々とアメリカで歌ったことがあるそうです。

シュテパネク君は2年前に入団しヨーロッパ旅行を一度しました。アムステルダムでモーツァルトの「バスティアンとバスティエンヌ」を演じたのですが、その前にフットボール(たぶんサッカーですね)をしてボールを目に当ててしまい、なんとシュテパネク君、目の周りに紫色のアザを作ったままバスティエンヌを演じたそう。それから実家が遠いので、日曜日はウィーン市内のおばさんの家に遊びに行くんですって。

ヴォネシュ君の父様は、「戦死しました」と答えています。母様はウィーンにいると言っていましたが、・・・初めて時代を感じました。戦後10年ですから、55年組はそんな団員もいたクラスだったのです。

トラック先生の話では、約20名をとるのに250人くらい志願があるそう。狭き門でしたね。

 

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初来日は雑誌の記事が多かったですが、肩書きなしの寄稿なので、音楽関係者といってもどんな人が書いたのか自分にはわからない。でも「3晩とも」と書いてるかたもあるので、3連チャン行かれるくらいの立場の人なのですね。
1,000円の切符が飛ぶように売れていたそうです。。1955年の1,000円は、今の5,947円ぐらいらしい。←ここで計算

その中で文章が個性的で、これは何だ?と思う寄稿がありました。60年以上前ですから著者は明治大正生まれのかたも多く、雑誌によってはみごとに旧漢字のままで出版しているのもあって読みづらい。昭和にもほどがありましたけど、ソリストをめちゃめちゃ誉めている方がひとりあったのでご紹介します。

著者は津川主一氏(つがわ しゅいち)。スマホで出てきますよ。実はすごい方だったのです。牧師さまでしたが後半生は合唱に人生をささげ合唱の父と言われているとか。フォスターを日本に紹介したり、讃美歌の日本語訳にも尽力されて、クリスマスの讃美歌「牧人ひつじを」は津川さんの訳詞だそうです。1971年に亡くなっていますが、このかたの文章が印象的でした。

 

文章の一部を紹介します。青い文字の部分です。(「音楽の友」1956年3月号より)

わたくしたちの聴いたのは、暮れの二十四日のヴァイナハトの前座で、第三部でヴァイナハツ・リーダーをうたうときには、人足どもが、衆人環視のなかで、大きなヴァイナハツ・バウムをエッコラサと、聴衆席から舞台へと持ちあげたのである、

なんかとんでもないクラシックな文章ですが、会場の様子が生き生きと伝わってきました。人足という言葉はもはや死語ですが、会場設営の業者さんたちがクリスマスツリーをステージに持ち上げたのでしょうね。

そしてソリストへの賞讃がありました。

ことに第一ソプラノのトップをうたっている変声直前のひとりの少年は、柄も大きく声にも巾があり、そんじょそこらの、ヘラヘラ・ソプラノのように、けれんや嫌味がなく、甚だ結構で、さすがは四百六十年もの伝統と、戦いには破れたりといえ、そのみやびやかな環境とは、単なる意気ごみや努力だけでは達せられぬ域にまで、とどかせている。

ソプラノトップ、そして変声直前という言葉から、ヴォネシュ君のことに違いないと思いました。最近の雑誌でここまで書く人はいませんよね。個人ブログならありそうだけど。私はなんなら、そんじょそこらのヘラヘラ・ソプラノも好きですが、聖歌隊文化も知られていなかった時代、ウィーン少年合唱団の演奏は日本人にとって青天の霹靂だったと思います。

トラック先生の指揮の感想を述べられたあと、「でも、その指揮に、ありったけの集中力をかたむけてついてくる素直な少年たちをみると、なおのこといじらしい気がしてならない」という一文でくくられていました。

 

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ある一日を書かれた記事もありました。これも同じ号ですが、要約するとこんな感じ。

9時起床、9時半朝食、食事がすむとホテルの広間で練習。(主にその日の演奏曲目)

発声練習や音階練習をしないで、いきなり曲を歌わせるやりかたに、この著者は驚いています。そしてトラック先生は若いので、忍耐強く何度も教えることがなかなかできないようで、時々大きな声を出して叱る・・・と書いています。2時間の練習が終わると、子ども達は解放されていたずらを始めたり、日本のテレビ番組に興味津々だったようです。

昼食は12時半から13時ごろからで、食事中はむだにおしゃべるすることは慎まなければならないそうです。そのためなのか、子供たちは指を使った暗号みたいなものを覚えているというのです。それでサインを送るんですって。

お昼が済むと14時から16時ごろまでお昼寝。睡眠時間は夜10時間、昼2時間ということになっているそうですが、寝たふりして遊んでいる子もいるらしい。それからお茶とお菓子の時間があって、夜のコンサートに出かけます。

日比谷公会堂のときには18時半開演だったので、17時までに会場入り。オペレッタの衣装やガラユニフォーム、靴などは事前に運ばれているそうです。

トラック隊の来日は冬だったので、会場でも子どもたちの喉を心配して隙間風が入らないように気を遣っていたそう。今ほど設備も整っていない時代です。

ステージでのプローベのあと楽屋にもどってまた練習。トラック先生は大変厳しかったそうです。

いよいよ開演ですが、子どもたちは2列に並んで待機しており、プレフェクトとシュベスター(看護婦さん)が舞台の進行やメイキャップ、オペラの衣装まで担当していたそうです。入場の知らせが入ると、プレフェクトが先頭に立って幕の降ろされたステージに出ていきます。

まだ幕はあいていません。看護婦さんはユニフォームをチェックし、トラック先生はリラックスモードで最後まで子どもたちの前髪がさがっていないか上着にしわがよってないか注意し、ようやく幕があがるのです。

今はどこのコンサートホールでも幕は開いたままです。幕のないホールも多い。最近の情景は、左右のそでから子どもたちがステージに登場しますね。この間のブルコアは、先頭の団員がアイコンタクトして(フィリップとマシューは、ほとんど笑みをかわしていました。)合図を図り、同じタイミングで左右からセンターに向かって出てきました。

さてトラック隊にもどります。休憩時間になると子どもたちはオペラの準備にかかりますが、驚くほど手際が良いそうです。いたずらboysなのに、身の回りのことや、そういった躾の良さは「気持ちがいい」と書かれていました。

プレフェクトは休憩時間にオペレッタのセッティングをしたり、舞台監督のように忙しいようです。

第三部の演奏とアンコールが3回で終演となりました。出待ちする人をかきわけてバスに乗り込み帰途につきますが、バスの中でも反省会があります。ここでは自分の意見を言う団員もいたそうです。

ホテルに着くと食堂で夕食をとり、休憩後に就寝。

 

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関西でのツアーに密着した記事では女性らしくこんな一文がありました。(音学の友,56年3月号より、青い文字が抜粋です。著者:山下菜穂子氏)

パジャマの姿の可愛らしさはひとしおで、その無邪気な愛くるしさは、ホテルの女中さん達もおちつかせない。みなが寝静まったのは十二時すぎ。

このかたは車内でのboysについても触れていますが、

通じるのは笑い位なもので、いささか悲しいが、でもほほえまれると、天にも昇る心地がするのはおかしな事だ。

でも皆がはしゃいでいるわけではなく、

一番背の高いソプラノの少年は態度に何となく落ちつきがあり、一寸背の低いめがねのぼうやは、みなのさわぐのにもエンのない顔で椅子にひじをついては、たえず考え深げにしている。

少女雑誌の物語とは全く違うリアルな描写に、数十年前のある日の車内が目に浮かびました。

 

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1954年イギリス公演プログラムより

 

6年前の記事で貼り付けたYouTube動画は1954年の映像です。これを初めて見たときセーラー服ではないし、トラック先生しかわからなかったので、感想を書くこともできず、どう表現していいかわからなかった。でも6年たった今新しい発見があり、私の心はホッカホカです。この超古い映像は来日一年前の55年組にほかならないのです。

 

 

 

まず5分20秒ぐらいから、3人の歌があります。左端が私思うところのヴォネシュ君。ソプラノ・ソリストです。

6分40秒ぐらい「 Stacherl」のアルトソロが素敵ですね。

(追記:来日画像を見て思いました。第2アルトの右端にいる団員くんかもしれない。クレン君の後ろ。)

それからこれは思い込み大かもしれませんが、「スサニ」をソロで歌っているのもヴォネシュ君のよう。カメラから遠いので顔まではわかりませんね。シルエットだけの思い込みです。

8分20秒くらいでアップになるのは団員時代のタイマー先生ですね。その隣の子も来日コンサートではソプラノ前列で、タイマー先生の隣りににいました。

NHKのインタビューで、ヴォネシュ君が「昨年アメリカに行った」と話していました。昨年というのは1954年、この映像が撮られた年です。

これは16mmフィルムでメトロポリタン美術館(MET)のものですが、撮影場所は分館のクロイスターズ The Cloisters museum and gardens、彼らは歌いながらギャラリーからギャラリーに移動していった旨の説明があります。私はオーストリアの教会かとばかり思っていましたが、そうではなくアメリカ滞在中に撮られたんですね。

ほんの少しのきっかけで糸の端が見えてきて、やがてほぐれていきます。

参考までに撮影場所は、こんなところです。https://www.youtube.com/watch?v=A9vkCpeBgdw

フルトモーザー隊の映像だって、残っていないとは限らない・・・

 

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古い記事の原本が見たくて古本屋さんを当たってみましたが、これはWSK初来日の特集号だったようで、到底見つかるとは思えません。

音楽の友は今でもあります。トラック隊にまつわる部分だけでも、著者紹介を入れて編集復刻してほしいですね。部分的な抜粋なら大丈夫かなと思い、引用元も明記して載せましたが、著者のことがわからないのです。

家庭画報の新年号に載っていた札幌の体育館に集まった12,000人の人々。あれが1955-56年にウィーン少年合唱団を聞いた記念すべきオーディエンス。椅子が足らないと床に座ったというのは、確か64年組の記事でしたが、いろいろなことが整った今の時代にいる私たちには、もう体験できないことです。想像しながら読み進めた古い記事から感じられる新鮮な好奇心は、日本が失ったものの一つかもしれません。

 

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追記:11月21日

参考にさせて頂いた記事の著者名を書き添えます。(敬称略)

NHK対談:渡辺 護、天使達の二十四時間:後藤和彦、ウィーン少年合唱団と関西の旅を行く:山下菜穂子、ウィーン少年合唱団の演奏を聽いて:岡本敏明、ウィーンの少年合唱団をきく:津川主一、ウィーン少年合唱団:屬 啓成

 

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ネットならではのページです。

朝日新聞デジタル 「今日のタイムトラベル」

 

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1月30日追記:アサヒグラフ1956年の号より

 

羽田に到着したトラック隊

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山の上ホテルの近所、お正月ごろの神田御茶ノ水界隈

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滞在先の山の上ホテルのレストランで、ケーキとお茶の時間と思われます。
奥のほうにクリスマスツリーがありますね。

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2月1日追記:この写真を見てふと思ったことです。どんなケーキだったのだろうと。

御茶ノ水から神保町にかけて大好きだった自分には、忘れられないケーキ屋さんがあります。エス・ワイルといいます。山の上ホテルから歩いて10分くらい、駿河台下を左に少し行った神田小川町にありました。そこのヨーロッパ風のケーキとババロアを思い出しました。昭和30年ごろ、トラック隊に出されたケーキが気になる・・・

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2019年11月11日 (月)

サラウンドSurroundが復活したので

 

oOo。.::.。oOo。.::.。oOo。.::.。oOo。.::.

 

いったい何のことかと思われるでしょうね。

古いコンポの機能です。名前を聞たらビックリするような過去の流行ものですが、パイオニア・プライベートを未だに使っています。

中森明菜さんがボディコンでCMに出ていましたよね。

レコードプレイヤーは付属のものがちゃちくって、針圧が気になったので別のをつなげています。CD重視のコンポとして、音は最高でした。

ところが私がせっかちでアンプの接続ケーブルを乱暴に扱ったとき、一部が破損してしまいました。それでSurround & Sーwideという音響をすばらしくする機能が使えなくなっていました。

それが、なぜか最近復活したのです。破損したところを雑にガムテープで押さえてるだけなので時間の問題ですが、久しぶりに聴いたライナー・キュッヒルさんの「日本の歌」があんまりきれいで、「初恋」を聴きながら洗濯物干す手を止めて泣いてしまいました。

 

今このうちにと思って、64年組のカセットからアンプを通して音録りしました。カセットは相変わらずノイズがありますけれど、しばらく使ってなかったのでデッキの機嫌は良いようです。パイオニアプライベート腐っても鯛です。小さいカセットなら安く買えますが、それよりずっと音が良い!ただしそんな年代ものですから、アナログ音をmp3に変換する機能はありません。それでひと手間、ICレコーダーに入力してPCに取り込んだものを使います。

デジタルに変換するとアナログの柔らかい音は残せませんが、テープに録音した時点で元の歌声は変わってしまっています。あとは「思い」と「妄想」であのモノクロ画面を思い出す。コンサートに行っていない自分は、それしかありません。

先日も書きましたが、頂いた(借りてダビングした)テープには、話し声や犬の声など入っていました。なぜかいいところでおしゃべりが始まります。それがストレスで、実は長いこと聴いていませんでした。

それはね、大人になった自分がレコードと同じような期待を持って聴くから、ストレスなんですよね。もし中学生や高校生のときにファン友と一緒にテープの交換会なんかやっていたら、自分だって無言ではいられないと思います。

もとより数十年後に公開することなんて頭にないのですから。

別のルートで頂いたテープからも犬の鳴き声が聞こえてきました。おそらくテレビから聞こえてくる美しいボーイソプラノに、ワンコが反応しちゃったのでしょう。ワンコも柱時計が時を告げる音も、普通の家庭の一日でした。

それでもテレビの音を録音しようと発想したこと。それがあって、今私の手元に音が残された。

 

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「デニス氏夫妻」の途中までです。最後まである録音はおしゃべりがすごすぎてちょっと無理なので、途中までのヤツを2つに分けました。

ちょうど89年組のデニス氏夫妻の3部作動画がYouTubeにあって、その②までの区切りと対応できました。オペレッタは映像がないと、歌のない部分でステージの様子がわからず、面白みにかけます。今回もフレンドの切り抜きをめっちゃ使いましたが、もともと少ししかないので、ステージを再現することはできなかった。

89年組のオペレッタを見ると、セリフの翻訳もわかります。並べてみました。

娘役の名前が変わっていました。いつ変わったんでしょう?

64年組ではアドリアンですが、89年組はルシールとなっています。

①だけセリフと歌詞の翻訳を参考までに書いておきます。

キャスティングは、ナネット:シャーリング君、ガストン:レッシュ君、アドリアン:ピューリンガー君、警備兵ペルローズ:ミュルナー君、兵隊さん:みんな

声は少し変質している気がします。ノイズのすごいテープのほうが、もう少し深みのある声でした。そして時々音がわれます。あとテープがよろけたり、間延びしたりする部分もあります。がまんして聞いてください。いつか、完璧な録音が現れるまで・・・

 

89年をミュートにして64年を同時に見ると、だいたい同じ進行なのでステージの様子が想像できますよ。

 

 

 

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歌 ナネット:年をとったらできなくなるから、若いうちに青春を楽しみましょう。
      歌ったり踊ったり、楽しく過ごしましょう。
      年を取ったらメガネをかけて手はふるえ
      ひざの上に猫をだいてじっとしているだけ

ナネット:まあ、ガストンさん驚いたわ

ガストン:妻のアドリアン(ルシール)も一緒なんだ

ナネット:え、あなたの奥さんですって?

ガストン:今はまだ違うけど、すぐそうなるさ

アドリアン:ナネット、おじさんに話があるの

ナネット:でもデニスさんはまだ田舎の別荘にいらっしゃるんですよ

アドリアン:まあ、どうしたらいいのかしら?

ガストン:一番いいのは行くことだ。これからすぐ馬車を借りて、おじさんたちの所に行こう。でもその前に何か飲ませてほしい。もう、のどがカラカラなんだ。

ナネット:かしこまりました

アドリアン:でもあなたと2人きりで旅に出て一晩過ごすなんて

ガストン:でもそうするしかないだろう

歌 ガストン:一晩僕と2人きりで過ごすのを、どうして恐がるの?

歌ガストン・アドリアン:恐がらないで、僕が守ってあげるよ。恐がっているわけじゃないの。

歌アドリアン:私もあなたが好きよ。あなたがいてくれれば安心なの

歌ガストン:一晩2人きりでも大丈夫さ。恐がる理由なんて何もないから

飲み物を持ってくるナネット:それから馬車はあと15分で参ります

ナネット:まあ、大変。警備兵よ

アドリアン:えっ、兵隊が来たの?

ナネット:若い男が寄宿舎から娘を誘拐したんですって

ガストン:急いで逃げよう

ナネット:だめ。もう遅いわ。すぐにつかまってしまう。
      あ、そうだわ。デニスさんの服を着て。そして眠っているふりをするのよ。

警備兵:こんばんは。かわいいお嬢さん。


歌 警備兵:私の名前はペルローズ、警備兵の隊長だ。私の名前は国中にとどろき、犯罪者は誰でも私を恐れている
     今日の仕事は若いカップル。つかまえて牢屋にいれること。逃げたカップルはどうやら親せきの家に隠れているらしい

 

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追記:11月17日

グリーンスリーブスを歌ったのは誰だったか、私は1ミリも覚えていません。テレビで聴いたことも覚えていません。

ただ心をガッツリ掴まれたのが、名も知らぬ少年たちだったシャーリング君とピューリンガー君の声だったのは確かです。これはピューリンガー君の声ですか?

 

 

グリーン・スリーブス 1964  話し声をトリミングしたので20秒ほどカットしています。

 

 

 

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2019年11月 2日 (土)

素朴さゆえに、こよなく美しい Laudate dominum

 

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秋になってから連休が多かったですね。

連休が多いということは、平日が少ないということですが、仕事の量は変わらないので、均等割りすると毎日忙しい。来週余裕でやろうと思っていたことがヤバイ。・・・・・なんか疲れた。

青山でドイツフェストやっているので、連休のどこかで玉ねぎのケーキZwiebelkuchenを食べに行こうかな(ビールも飲もうかな)と思うのですが、玉ねぎのケーキが見つかるかどうも実はわからなくて、カレーブルストでもいいか・・・

ハナミズキの葉は今が一番秋らしく色づいています。

 

ウィーン少年合唱団の古代検索は楽しいですが、わからないものは何をしてもわかりません。ネット上には探すと元団員がいます。個人で古いフィルムを持っていることだってあるかもしれません。でも見ず知らずでメッセージを送るのは勇気ですよね。あれこれ考えて無力な自分に疲れました。

 

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先週natalさんがこの動画をSNSにアップされていました。

カウンター・テナー歌手クリント・ヴァン・デル・リンデのトレブル時代。そう、ドラケンスバーグ少年合唱団です。

歌唱力ゆえにネット上で注目されるのは「夜の女王」のアリア。それは確かに素晴らしいのですが、私はこの曲を少年が歌うことをあまり好まない。物語とはいえ復讐の炎ではらわたが煮えくり返るような歌を、合唱団の子どもは歌わなくてもいいです。それはオペラ歌手におまかせしておけばよい。

魔笛だったら、三人の童子を歌ってほしい。

少年には少年の、ボーイソプラノだけが持つ固有の美しさがあります。

ソプラノ歌手が100人かかっても、宗教曲のいくつかのアリアはボーイソプラノにはかなわない。

それを一等感じるのは、例えばこの「Laudate Dominum」なのです。

 


Clint van der Linde

赤いラインの入ったおそろいの丸首シャツと短パンのboys。これに黒いサンダル履きで・・・私はそのサンダルがお気にりで、古い映像を見て喜んでいました。いつもの青いユニフォームは来ていませんね。それどころか普段着で超自然児のドラキーズ。リハだったのでしょうか。まだ日本に来ていなかったころの何のしがらみもない貴重な映像です。

コメント欄によれば、これは1992年らしい。ダーバン大聖堂の隣りの礼拝堂だった・・・と。あまりよく覚えていないようですが。そんなことが書いてありました。エンドロールの向こうで指揮をする若きBunny=クリスチャン・アシュレイ・ボータ氏。

目を大きく開いて豊かな表情で歌うクリント君の姿から、音楽への喜びが伝わってきました。

 

ついこの間、BS-NHKで放送されたアナザー・ストーリーズという番組で、元南アフリカ大統領マンデラさんを取り上げていました。その切り口は「ゆるし」というテーマでした。27年間投獄生活をおくりながら、白人を恨まず共に国を築こうと呼びかけたマンデラさん。彼にとって黒人と白人が一緒に歌うドラキーズは、南アの将来につながる希望の存在に思えたそうです。

アパルトへイトが撤廃されたのは94年。その前からドラキーズには黒人の団員がいました。アフリカの歌を歌うのにアフリカの子どもがいないのはおかしいという率直な考え方だったときいています。テレビではその第一号の元団員ズワイと弟のロイソがインタビューに応じていました。最初はテープに歌を吹き込んで送ったそうです。写真も履歴書もなければ、黒人だとわからないだろうからとズワイが話してしました。

実際に会って黒人だとわかって驚かれたそうですが、音楽監督(おそらくBunnyのこと)が自分の才能を認めてくれたのだと。

 

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番組のいち場面、右下にアシュレイ・ボータ・クワイア1990,当時のドラキーズの選抜隊でしょうね。後列左端にBunny氏、右から3人目に兄さんのズワイ、最前列の中ほどに弟のロイソ、左から4人目がクリントで、ロイソの隣の金髪の小柄な団員はやはり天才的なソリストだったジャックではないかと思います。(テレビをそのまま撮ったので斜めってスミマセン)

1967年に創立されたドラキーズ。同じ年にウィーンのライニーさんがムント隊で南アに行きました。ドラキーズ・スクールが作られたのはウィーン少への憧れからだとか。初期の録音を聴くと可愛らしい幼い歌声です。

途中の経過は詳しく知りませんが、圧倒的に素晴らしい演奏をするようになったのはBunny時代と思われます。WSKの60年代のように優れたソリストもいました。

ズワイとロイソは弟のフェロ(2004年にドラキーズとして来日しました)を交え、3人でバラ・ブラザースを結成して音楽活動を続けていると番組でも紹介していました。NHKがドラキーズとバラ・ブラザースを招待してくれたらいいのに。

 

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私はこのBunnyの指揮も自分の目で実際に見ることはできなかった。ポズナンのストリグロシュ氏もフロシャウアー先生も、マイヤー先生もフルトモーザー先生も・・・

こんな美しい歌を聴いていると、忘れようと思ったことも思い出されてしまいますね。秋はなんとなくもの悲しい。

 

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ネリネが今年もたくさん咲きました。
花王国南アフリカ原産でダイヤモンドリリーとも言います。花びらの表面が光に当たるときらきら輝くから。

今日のラグビー、イングランド対南アフリカ戦は、南アフリカを応援します!

 

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ちょっとお知らせ

💕ウィーン少年合唱団オンエア情報:2019年11月3日(日)21:00~23:00、NHK Eテレ「クラシック音楽館」←地上波ですね。

https://www.japanarts.co.jp/news/news.php?id=4390

*ウィーン少年合唱団は22:49頃から約10分間の放送とのこと。東京芸術劇場のライブから2曲ですが、BSでご覧になれなかったかたは是非。

💕 来年のシューベルトコアコンサート:2020年5月16日(土)は文京シビックホール、早すぎる決定ですが行かれる方は是非。

 

 

 

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